個人的なことは、政治的なこと
過去の記事で何度か、
「個人の問題と、社会に訴えるべき問題とは、切り分けて考える必要がある」
というニュアンスのお話をしたところ、
「それはフェミニズムの意に反する」
と指摘をいただきました。
おそらくそれは、フェミニズムのスローガンとして掲げられていた、
「個人的なことは、政治的なこと(The personal is political)」
のことを言われているのだと思います。
なるほど確かに、と思いつつも、この考えに固執することこそが、フェミニズムの衰退を招くのでは?という推論と併せて、この考えを緩やかに(あるいは明確に)否定する「ポストフェミニズム」の話題に触れていきたいと思います。
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まず「個人的なことは、政治的なこと」についてですね。
これは前述の通り、第二波フェミニズムにおいて結集を促すためのスローガンのように使われていた言葉です。
女性にとって個人的な問題だと捉えられていたこと (家庭における不満、性的な事象、出産や育児など) を、政治的な介入を必要とするものだと捉え、社会全体に変化をもたらす必要がある、として、女性たちの団結を促すのが主旨でした。
この考えは、フェミニズムの抱える諸問題を政治活動家に委ねることで、より具体的な社会変革に繋げていったという、第二波フェミニズムにおける特徴の一つにも繋がります。
ただ逆に、フェミニズムを政治家や政治活動団体に「女性の活躍できる社会へ」を謳うための口実とされることにもなり、それは今日に至っても続いているため、フェミニズムが批判を受ける要因の一つにもなっていますが、本項の話題とはズレますので、ひとまず置いておきます。
このスローガンは主に、家父長制への反発を強く持つラディカルフェミニストと、「専業主婦も間接的に資本家から搾取を受けている」という考えの、マルクス主義フェミニストからそれぞれ強い呼応を受け、多くの支持を集めることに成功しました。
実際にはフェミニストの中にも反対意見が少なからずあり、前述した横置きした話のように「フェミニストと政治団体との境界線をあやふやにするのは危険だ」とも言われていましたが、結果としては、
・ドメスティックバイオレンスの犯罪化
・女性のための避難所の設立
・婚姻の有無を問わない避妊利用の権利
・既婚女性が固有財産を持つ権利
といった、それまで認められていなかった女性の権利を獲得することにも繋がりました。
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さて。
これは第二波フェミニズムの全盛期である60年代、すなわち
今から60年ほど前の話です。
現在においても、このスローガンは摘要できるものでしょうか?
(続く)
「社会において、すでに男女平等は達成された」
第二波フェミニズムが広く叫ばれたのは1960年代です。
それは前述の通り、男性社会に対して多くの訴えをその耳目へ届けることには成功した、と言ってもよいでしょう。
……時は流れて。
それから30年ほども経った90年代頃。第二波フェミニストの、子供たちの世代ですね。
アメリカを中心にして、女性の権利を主張する際に、
「私はフェミニストではないのですが…」
という前置きをしてから語りだす女性たちが見られるようになりました。
つまり、意図的にフェミニズムと距離を取ろうとする動きが現れたのです。
こうした動向を指して、「ポストフェミニズム」と呼ばれるようになりました。
ポストフェミニズムの大まかな特色は、まず第一に、
「社会的に、男女の不平等はすでに解決されている」
を、前提とした上で、
「ジェンダーに関する問題を、政治的な問題として扱うべきではない」
としています。
社会はすでに女性が自由に生きられる状態である、という考えを主に、フェミニズムが問題視していた画一的な女性像を古いものとし、女性は個性を生かしたそれぞれのライフスタイルを選べる社会を目指す、といったものです。
これは特に90年代のTV番組、映画、音楽、ファッションといった文化芸術に大きな影響を与え、それまで「男性に媚びるもの」としてタブー視されていた大胆な表現が、惜しみなく使われるようになりました。
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ここで、お話としてもう一つ重要な用語を登場させる必要があります。
それが
「第三波フェミニズム」です。
第三波は、第二波の流れに続くものではあるのですが、ポストフェミニズムと似通った部分が非常に多く、
ポストフェミニズムも第三波に含まれるという論調もあるほどです。
それに、第二波までと比べて、はっきりとした目的もあまり無く、組織だった行動もあまり見られず……と、こうして書いていても、具体的にどんなものであるか、という説明がとても難しくなっています。
独自研究も含むのですが、ざっくりとまとめると、
「社会的に、男女の不平等はおおまかな部分においてすでに解決されている」
「だが、第一波から第二派までのフェミニストが成し遂げた業績を当たり前のものとして享受し、空気のように感じている世代は、今もなお男性社会からの支配を受けていることに気づきにくくなっている」
「だから、それを先入観なしで認識できるように『意識を覚醒させる』必要がある」
…と、あらためて男性社会と戦い続ける意志を持ち続けよう、というものです。
ただ、これはあくまでフェミニストしての根底にあるもの、という定義付けに過ぎなくて、その反面、文化や実際の行動においてはポストフェミニズムと非常に似通っています。
画一化された女性像を嫌って、女性とは個々の価値観をもった自由な存在であると主張する向きが多く、第二波では嫌われたような性的な表現を含むエンターテイメントなども、第二波よりもかなりおおらかに許容されています。
また、ジェンダーを男性と女性だけとは捉えないのが特徴の一つでもあり、トランスジェンダーも含めて、「自らのジェンダーをきちんと確認し、そのジェンダーで自分らしく生きられる社会作りを目指す」というように、第二波までの「女性のために戦う」という意識では説明できない面も持っています。
第三波フェミニズムとポストフェミニズムに共通した意識として言えるのは、
「第二波までで言われていたジェンダー差別の多くは、すでに社会においては解決している。『個人的なことは政治的なこと』という考えは、もはや過去のものである」
ということです。
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それで、なのですが。
これがつい最近の話かというと、冒頭に申し上げた通り90年代、つまり
30年も前のお話です。
では、今でもまだ「個人的なことは政治的なこと」を唱え続けている人達は、一体どこからタイムリープしてきたのでしょうか?
(続く)
時をかけるフェミニスト
第三波の説明の中で、
「女性はいまだ男性社会からの支配を受けていることに気づくために、『覚醒』しなくてはならない」
といった思想があるというお話をしました。
とはいえ、それは言い換えれば、わざわざ「思い出せ」と言わなければならないほどに弱まっている、と思えるものでもありました。
しかし、それをひっくり返したのが、SNSを主体とする第四波フェミニズムです。
「#MeToo」運動などは、まさしく「個人的なことは政治的なこと」の復興とも言えるものではとさえ感じます。
フェミニズムを敬遠する意見に対して、第四波のフェミニストから言われる意見として、
「現代の女性が自由に生きられるのは、過去のフェミニストが尽力したおかげであり、それをないがしろにするのは許されない」
というものがあります。
それは確かに、否定しきれない正論の一つでしょう。
ですが、完全に否定できない理屈とは、いわば呪いのようなものです。
女性が男性社会から縛られなくなった代わりに、今度はフェミニストの呪いに縛られて生きていかなければならないなど、本末転倒もいいところです。
過去の女性たちの苦悩、苦心、苦労を否定はしません。
でも、いま生きている人間にとっては、生まれたときから在るプラットフォームたるこの社会において、自分たちがどう生きてゆくか、それを必死に考えることこそが第一であり、建設的な志向ではないでしょうか。
あの時代はこうだった、この時代ではこうだった、だから今はこうしなくてはならない。
フェミニズムが手に入れたのは、そんな風に女性を束縛するためのルールだったのでしょうか?
繰り返しますが、それは60年前に生まれて、30年前には既に「終わったこと」だと考えられた理論です。
そして30年前に、その「NO」を突きつけたのが、ポストフェミニズムでした。
古代史ばかり気にして、近代史を無視するのは、現実逃避にすら近しいのではと思います。
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問題は切り分けて考えよう、ということを、このコラムでもたびたび申し上げてきました。
女性に対して、何の情報も与えられていない時代ではありません。
自らが抱えている問題が、自らの努力で解決出来ることなのか、そうではないのかの判別はつきますし、つかなければそれを判別してくれる機構や機関も既に世の中にあります。
権利を主張するな、などということは勿論申し上げません。
ですが、すでに手に持っている、あるいは足元を見ればすぐそこにある権利を無視し、時には放棄すらして、もっと足りない、これではダメだ、もっと寄越せ、もっとだ、とだけ言い続けるのは、それこそ女性の誇りと尊厳のために戦ったフェミニストに対して失礼なことなのではと思ってしまいます。
「個人的なことは、政治的なこと(The personal is political)」
に、こだわり続けることは、逆に
「世の中の変化を受け入れようとしない集団」
「どこまでいっても永久に満足しない集団」
だと見られかねません。
第四波を唱える方々も、60年前の理屈だけではなく、30年前のポストフェミニズムの考え方にも一度目を通して、女性の意識の変化を真摯に見つめ直してみてはいかがでしょうか。
目まぐるしく変化を続ける時代に、女性が活躍するのはどうしたらいいか、を考える上で、有意義なことではと思います。
(了)
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<参考資料>
労働としてのセクシュアリティ:再生産労働論の再検討(著者:伊田 久美子[大阪府立大学 人間社会システム科学研究科 客員研究員] )
若い女性の「フェミニズム離れ」をどう読み解くか(高橋幸[武蔵大学・関東学院大学ほか非常勤講師])
理論/実践「個人的なことは政治的なこと」をめぐる断章(堀江有里[立命館大学ほか講師])